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★☆Chapter4☆★
Chapter4. 輝き続けている兎の眼
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ようこそWeb Worldへ!
インターネットという新しい世界を私と一緒にWebしていきましょう。
前回はちょっと自分の趣味に偏ってしまった感じがします。
今回はそのことを指摘してくれたとある先生の話からはじまります…。

先日、神奈川にあるバプテストの教会の牧師であるF先生(仮名)から、先月のこのコラムについて、ちょっとした指摘を受けてしまった。(先生はこの機関誌を読んで、あまりにも偏っているような気がするという感じに言われたのだが)。今年(1996年)の青年会の修養会は、そのF先生を迎えて一泊修養会、コンサート、礼拝をとりもった。ただ、私自身は会社の旅行で修養会に参加出来なかった。
私がF先生と初めて会ったのは、高校3年生の夏に行った天城山荘での全国少年少女大会である。偶然にもこの大会で初めてW先生にもお会いした。この頃の写真を見てみると二人とも若い!(もちろん、今も若いです、お二人とも……)特にF先生は黒ぶちの眼鏡を掛けて、ポロシャツでさわやかに装い、いつもにこにこと笑顔で接していた。彼は当時シンガーソングライターの大江千里(ミッション系の関西学院大学卒)に似ていたので、「千ちゃん」と呼んだりしたこともあった。その時一緒に撮った写真は私にとって記念の1枚である。
F先生の放つメッセージは、やわらかな語り口で心にじわじわと浸透してくる。私は残念ながら修養会とコンサートに参加できなかったが、礼拝では彼の語られるメッセージとピアノによる賛美(彼の弾きを見ると、Billy JoelやElton JohnといったPiano Manのイメージを感じた。ちなみに大江千里もピアノの弾き語りをする)のに耳を傾けていた。誠実な賛美と誠実なメッセージを聞いていると、先生の隣にいる神様が見えてくる。

この日先生が取り上げていた聖書の箇所は、サムエル記上の3章だった。知っている人も多いと思うが、指導者エリの弟子のサムエルが神様に呼ばれる所である。「サムエルよ、サムエルよ」と神様に呼ばれた彼は、エリが呼んだと思ってエリの所に行くのだが、エリではなかったので、再び自分の部屋に戻った。しかし、神様はまた「サムエルよ、サムエルよ」とサムエルを呼ぶ。しかしエリが呼んだのではない。しばらくしてまた神様に呼ばれたサムエルはエリの元に行く。サムエルが3度来たのを見てエリはその時、神様がサムエルを呼んでいるという事に気づく。そしてエリはサムエルに、今度神様から呼ばれたら「しもべは聞きます。お話下さい」と言いなさいと伝えて部屋に戻らせた。そして神様に呼ばれたサムエルは「しもべは聞きます。お話下さい」と神様に話した。神様はエリの家に不幸な事を起こすという残酷な事を伝えた。翌朝になってサムエルはエリに呼ばれたが、この事を話すのを恐れた。しかしエリから「神様からの言葉をすべて話しなさい」と言われたので包み隠さず話すと、エリは神様に心からひれ伏した……。この事から分かることは、指導者エリが弟子サムエルに対し、神様の存在をきちんと教えていく姿を描いていること、そしてその指導を共に住んでいる状態でなされたということである。

教会は年代の垣根を超えて神様によって共に過ごす時を与えられている。青年は教会の中でさまざまな信仰の先輩方の姿を見て、また教えを受けて自分自身が成長していくだろう。一方先輩方は若い者の教会での働きを見て新たな刺激を受けていくだろう。教会は神様を中心に世代を超えて共存していく事が大切だということを語られた。青年大会を迎えるにあたり、このことを改めて思い起こされた。

さて、F先生はもう一つ「兎の眼」という灰谷健次郎さんによる児童文学を取り上げていた。灰谷さんの小説は小学生時代に「太陽の子」など何度か読んだことがある。またTVドラマで見た覚えもある。でもその時は子供向けとはいえ、読みこなすのは難しかった。このメッセージを聞いたのをきっかけに、私は「兎の眼」の文庫版を近くの本屋で買って、読みはじめている(感想は後日書きます)。新任女教師である小谷先生は、大阪の工業地帯の小学校で、子ども達、教師、近所の人々たちとの半端でないふれあいを通して繰り広げられる長編である。そこには処理場の近くに住む鉄三という男の子や知的障害を持つ女の子もいる。本当の教育とは?本当のふれあいとは?この小説を通して灰谷さんは、この問題を私達に問いかけている。
私が今になって「兎の眼」を読みたくなったのは、F先生の話を聞いたからというのもそうだが、それだけでなく私自身も子ども達と接する機会が多々あるからである。

実は短大卒業後、1年間幼稚園の先生をしていた。周りの人達は「○○(本名)には絶対向いてないよ」と言われたりしたのだが、私自身今までもいとこの子ども達などと遊んだりしていたので「何とかやれるだろう」と軽く思っていた。でも実際にやってみると、幼稚園の仕事は本当に難しいことに気づいた。一人一人を見ると同時に、全体を見ていかなければならない。しかしそれが難しく、私の受け持った年長組のクラス(23人位)はなかなかまとまらなかった。話を始めようとしてもうるさかったり、友だち同士で喧嘩したりと、毎日ストレスがたまりがちだった。それでも子ども達一人一人は本当に可愛かったので、何とか頑張ってみたのだが、結局1年でその幼稚園を辞めてしまった。通勤にも時間が掛かりすぎていたこともそうだが(家から電車とバスで1時間半掛かる上、8時始まりなので家を6時半には出なくてはならなかった)、自分は幼稚園の先生にはやっぱり向いてないと思ったのである。子ども達と一緒に過ごせなくなるのは少し淋しかったが、辞めることを決めてからは子ども達と卒業するんだという気持ちに切り替えて、残りの時間を全うしていた。あれから5年半、この時私が教えた子ども達は今6年生に成長している。最近、その教え子から手紙が届き、懐かしさを少し覚えた。この原稿を書き終えたら返事を書こう。

さて私は現在、教会学校で小学生の子ども達と接している。男子クラスと子ども聖歌隊を受け持っている。教えるにはまだまだ勉強が足りないが、子ども達と一緒に学び、一緒に遊んでいる事で子ども達と楽しい時を持っている。早いもので教会学校の教師を始めて6年半経った。小学生の子ども達の姿を見ていると、幼稚園教諭時代、元気すぎる子ども達と共に奮闘していた自分を思いだしてしまう。今思うと教会学校で子ども達を教える上で、幼稚園での経験がかなり役立っている様だ。子どもの領域にどうやって入っていくか、大切な事を伝えるのにはどうしたらよいか、など知らず知らずのうちに私なりに身に付いていたのである。そして何より、神様が一番ということを教える事が出来ることの幸せを改めて知ることが出来たのが嬉しかった。
子ども達の生き生きとした眼、私と会うといつも元気に声掛けてくれる時の眼、「ねぇねぇ……」と新しいたまごっちやプリクラなどを見せてくれる時の輝いた眼……。私は毎週子ども達と楽しい時を過ごせる事に喜びを感じている。今回の題名を「兎の眼」にしたのは、作者の灰谷さんの子どもたちに対する愛情・思いがこの題名に込められている様な気がしたからである。
私は教師というにはまだまだ修行が足りない身であるが、こんな私も神様は用いて下さることに感謝している。今までの歩みは遅々としたものだけど、いつも私の隣にいて下さる神様がきっと実を結んで下さるだろう。これからも子ども達と、青年達と、そして信仰の先輩方と共に、神様が示して下さる道を歩んでいきたいと思う。

あなたがたのすることは、言葉によると行いによるとを問わず、
すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい。
(コロサイ人への手紙 4章17節、23節)

Last Update:1997/10/30
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